□□□


 耳を澄ますと、やかんの隙間から透き通った空気の音が聞こえる。

 後ろで手を組み、なんとなく、つま先でバランスをとりながら、お湯が温まるのを待つ。

 使い慣れたやかんを眺めながら、自分にだけ聞こえるように、鼻唄を歌う。
 今日の私は機嫌がいい。果南ちゃんに耳かきしてもらったんだ。

 久しぶりだった。
 まだ少し耳がジンジンと熱を持っているけど、それが気持ちいい。
 左手で耳たぶに触れると、ちょっとだけヒリっとした。

 さっきまで果南ちゃんの膝にくっついていた方の耳は、少し熱い。軽く手で扇ぐと、小さな風がひんやりとした感触を残して、私の耳をなでていった。

 1分前の私は、果南ちゃんに膝枕してもらってて、果南ちゃんに触れられてたんだ。そう考えると少し胸が高鳴る。

 果南ちゃんは私の幼馴染。3人目のお姉ちゃん。学年は1つ上だけど、歳はほとんど同じみたいなもの。赤ちゃんの頃から一緒にいた。

 ダイビングが得意。
 浜辺に行くと、よく果南ちゃんを見つける。いないと思っても、しばらく待ってると浮いてきたりするから油断ならない。

 もぐって何をしてるのかは知らないけど、いろんなことをしてるみたい。

 あと、地味に操船もできる。

 それから、天体観測が好き。
 私も、夜の空に光る星は綺麗だなーって思うけど、星座がどうこうと言われると、よくわかんない。
 きっと果南ちゃんの観てる夜空と私の見てる夜空は違うんだろうな、と思う。
 でも、果南ちゃんが遠くを指差しながら説明してくれる星座の話は好き。理解できることはほとんどないけど。

 あとは梅干しが嫌い。
 私が果南ちゃんの前でこれ見よがしに梅干しを食べると、黙って口をすぼめて目をキュっと閉じる。
 その顔を見て私は笑って、笑ってる私を見て果南ちゃんは笑う。

 やかんが、ヒョロヒョロと高い音を出し始めた。湯気は勢いよく出ているのに、その音はまるで波に揺られる藻のように弱々しい。

 慌てて、急須を用意する。
 目線はやかんから離さず、棚からお茶の葉を取り出す。

 少しづつ、湯気の勢いが強くなっている。

 そんな湯気が、やかんの蓋を開けてしまう前に火をとめる。
 沸騰しきらないうちの、暑すぎないお湯の方が、お茶は美味しくできるんだ。

 お茶葉の箱の蓋を開けて、大きめのスプーンで、お茶の葉を掬う。指先にだけ、冷たいスプーンの重みが伝わってくる。

 1杯、2杯。

 気持ち多めに入れておいたほうが、後から薄味だった、なんてことにならない。
 もし濃ければあとからお湯足せばいいんだし。

 やかんのお湯を、急須に注ぐ。乾いたお茶の葉に、染み渡るようにお湯が広がっていく。
 急須の内側が湯気で曇る。温かすぎる空気が私の顔を包むように昇ってくる。

 本当は70°くらいの温度がいい、って言われるけど、細かいことはよくわかんない。
沸騰する前くらいかなー、って思ってる。

 お湯を入れると、急須に蓋をする。

 時計を見て、60秒を数える。

 今日は曜ちゃんも来てるから、湯呑みは3つ。回しながら注ぎやすいように、三角形にして置く。

 急須に手を触れると、ちょっとだけ暖かくなっていた。あと30秒。
 お茶の葉が開く、ちょっと前くらいがいいんだって。そんなこと言われても開けちゃダメなんだったらよくわからない。

 だって、確かめようとして蓋を開けて、そこでまだ開いてなかったら、美味しくなくなっちゃうんでしょ?

 おかしな話だよね。
 昔の人は、どうやって開きかけが美味しい、ってわかったんだろう。

 60秒。

 左手で急須の蓋を抑えて、右手でゆっくりと急須を持ち上げる。
 湯呑みに向かってゆっくりと傾けると、さっきまで透明だった白湯が、薄緑色のお茶に変わっていた。

 果南ちゃんの色だ。

 クスっと笑う。

 少し注いだら、次の湯のみに移る。さっきより少し濃い色をしたお茶が、湯のみに注がれる。

 同じように、次の湯のみに。
 だんだんと色が濃くなっていく。

 ぐるぐると順番に注いでいくと、最後の一滴を入れる頃にはみんな同じ色になってた。

 一滴。

 次の湯のみに。

 一滴。

 一滴。

 ……最後の一滴はどれにするか、いつも迷う。
 軽く振っても雫が落ちなくなったタイミングで、軽くなった急須を手元に置く。

 バランスが崩れないように、ゆっくりとお盆を持ち上げる。

 2人のところに運ぼっと。





「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

「!?」

 廊下を歩いてると、部屋から聞こえてきたなぜか少しだけ色っぽい曜ちゃんの声に、驚いて立ち止まる。
 お盆の上のお茶が私に遅れて軽く揺れる。

「へへへ……千歌と同じ反応だ」

 果南ちゃんの楽しそうな声が聞こえる。

 ……そうだった。今、曜ちゃんは果南ちゃんに耳かきしてもらってるんだ。

「くすぐったい……」

「…………」

 ちょっと嬉しそうな曜ちゃんの声。
 ……あれ? 
 なんか……ちょっと、ちょっとだけ、面白くない。
 いや、私が頼んどいてなんだけどさ。

 さっきまで私がいた果南ちゃんの膝の上に、曜ちゃんがいる。

 懐いていたペットが友達の方に懐いてしまった……ってよりは、その反対の感覚を覚えた。飼い主が他のペットに目移りしちゃう感覚。

「…………」

 ぶんぶん、と首を振る。

 いやいや、何考えてるんだ。果南ちゃんはみんなのもの。私だけのものじゃないんだ。
 ……もの、って言い方には語弊があるかもだけど。

「お茶沸いたよー!」

 ちょっとだけ浮かんでたもやもやを、振り払うように扉を開ける。

「お、ちょうど終わったところだったよ」

 果南ちゃんの長いポニーテールが揺れて、こちらを振り返る。さっきと何も変わらない、いつもの果南ちゃん。

「ふぅぅ……気持ちよかった」

 起き上がった曜ちゃんは、服のシワを伸ばしながら、頬を薄く赤らめて言った。
 私が耳かきしてあげたわけじゃないけど、なんだか嬉しくなる。

「でしょでしょ!」

 お盆を机に置き、果南ちゃんの肩に掴まる。頬が緩む。曜ちゃんはこくりと頷いた。

「私もなんか楽しかったよ」

 寄りかかった私の体重でバランスを崩し、姿勢を崩しながら果南ちゃんも笑う。
 わたしの手の上に、果南ちゃんの手が置かれる。ちょっとドキッとする。
 
 なんというか……

 そう呟いた果南ちゃんは、斜め上を見上げながら人差し指を顎に当て、何かを考えるように唸る。

 何を言おうとしてるんだろう。

 曜ちゃんと目が合って、首をかしげる。

「……姉妹を持った母の気分?」

 ぴったりの言葉思いついた、と言わんばかりの顔色で、ビシっと私たちの顔を見る果南ちゃん。

 曜ちゃんと目が合って、ふふって笑う。

「私たち娘……」

 それにしては若くない? 曜ちゃんが、困り眉で私を見る。
 えっとね、未亡人とかだったら若くても……そう言いかけて、果南ちゃんに止められた。
 意味合いがちょっと違うって。
 言った私も、テレビで聞いただけだから意味は知らないけど。今度調べとこう。

「曜ちゃんがきょうだいかぁ……私お姉ちゃんがいい!」

「え? 妹かと思ったよ」

 さも当たり前のことを確認するように、果南ちゃんはキョトンとした。

「私も」

 曜ちゃんも真顔で頷く。

「ここでも下っ端……」


 ……いつも通りの、昼下がり。

 遠くで鳥が鳴いた。



□□□

 次の日の朝。外に出ると、海が眩しいくらいに輝いていた。蝉の声。風が肌をなでる。

「おっはよーそろー!」

「……それ、私のセリフ」

 こっちを振り返って、やっぱり困り眉で笑う曜ちゃん。少し遅れて、おはよ、って返してくれる。ヨーソローは?

 上を見上げると、薄い雲が、海よりも水色に近い空に散らばっている。
 視界を遮るように覆いかぶさる、私より長生きの大きな木。葉っぱの隙間から陽射しが零れ落ちる。

「長生きの木……」

「うん?」

 顎に手を当て、少し考える。
 長生『き』の『き』……うーん……これはどうなんだろう。みんな笑うかな。

「ねえねえ、曜ちゃん」

「なあに?」

 真横を歩く曜ちゃんは、袖に隙間を開けて風を通そうとしてる。
 ウチの夏服は、袖が閉まり気味だからちょっと暑いんだよね。秋とかは丁度いいんだけど。

「あの木はね、私たちより長生きの木なんだよ!」

「そうだね」

「ちなみに今のは、長生きの『き』と……」

「説明しなくていいから……」

 曜ちゃんは片手で、私の肩を押さえて私の説明を止めた。
 ……いつも通りあしらわれた。ちょっと凹む。

「クセ毛も一緒にヘコんでる……」

 面白そうに私の頭の上を眺める曜ちゃんも、やっぱり幼馴染だ。こういう下らない会話にも付き合ってくれる。

 ……そりゃ、私だって、いつも何も考えずにこんなこと言ってるわけじゃないよ。
 花丸ちゃんやダイヤちゃんほどではないだろうけど、色々考えてるつもり。人間だもん。

 だから、こうして適当に好きなことを言うと、適当に流しれくれる人がいるのは、すごく嬉しい。幼馴染だから、お互いに苦手なものや変なところも知ってるし。

 そういえば、幼馴染といえば、もう1人……

「ハロ〜、2人とも〜」

 内浦ではあまり聞かないイントネーションのあいさつ。振り返るまでもなく誰かはわかった。

「あ、鞠莉ちゃん」

 おはよう、と曜ちゃんと2人で振り返る。
金髪が日差しに輝いて、ちょっと眩しかった。

「ふふ、ブラザーみたいね」
 
 どうやら振り返るタイミングが揃ってたみたい。少し離れたところから鞠莉ちゃんが笑ってた。

「それだと男の子みたいだよ」

 曜ちゃんが笑ってそう返す。
 そういえば、女の子どうしの姉妹のことは 英語でなんて言うんだろう?
 鞠莉ちゃんに尋ねたら、さぁ? って首を傾げた。
 私も知らないなぁ、曜ちゃんも呟いた。

 ……それはそうとして、1人足りない。

「ね、鞠莉ちゃん、果南ちゃんは?」

 船が一緒だから、いつも一緒に来てるはずなんだけど。
 今日は鞠莉ちゃんしかいなかったから、ちょっと物足りない感じがあった。

「うーん、シップに忘れ物したから、ちょっと戻るって」

 だから、先に行っててー、って言われたの。
 間に合ってるといいね、船が出航しちゃってたら時間かかるよ。

 横で2人が会話してるのを横目に、私は少し寂しかった。
 なんだか今朝は果南ちゃんに会いたい気分だった。
 ……なんだろう、これは?

「おーい、置いてくよー」

 少し先から、2人がこちらを振り返ってる。
 あれ、いつの間に立ち止まってたんだろう。

「置いてかないでよーう!」

 駈け出すと、ふとももに風が入ってきた。軽くスカートを抑える。
 横を見ると海がキラキラと輝いて、目が少し痛い。蝉の声が響く。

「……でね、そのあと曜ちゃんもきて」

「私もやってもらったんだ」

 3人で海沿いを並んで、なんでもない会話をしながら学校に向かう。
 日差しで少しまぶたが熱い。

「へぇ……耳かきねぇ……」

 鞠莉ちゃんがそう呟いたあと、そう時間を空けずに言葉を続けた。

「そういえば子供の頃はしてもらってたなぁ……」

 少し羨ましそうにそう言った鞠莉ちゃんに、ちょっとだけ優越感。

「だよね! 私は果南ちゃんにやってもらってるけど……」

 それに、千歌ちゃんは。

 曜ちゃんが口を開いた。

「お姉ちゃん2人もいるしね……」

「えへへ……」

 耳かきしてくれるような人がいっぱいいるねー。
 3人で少し笑った。何が面白いのかはわからないけど、こういうのも楽しい。

「にしても……耳かきね」

 鞠莉ちゃんが少し前を歩きながらまた呟く。大人な雰囲気。

「いいわね、やってもらえるなんて」

 ……大人な雰囲気でも、言ってることは私たちと変わらない。
 鞠莉ちゃんもしてもらいたかったりするのかな。

「うん!」

「普段は綿棒とかで済ませるけどねー」

 そういえば綿棒って実際、綺麗になってるのかな。あんま掃除できてる実感はないけど。
 曜ちゃんがそう言って、鞠莉ちゃんがたしかに、と返す。

「1人でするよりも2人でする方が……キモチイイものね」

「なんかいやらしい感じ……」

 曜ちゃんが口元を押さえて、ちょっと声を控えめにして言う。なぜ突然上品になる。

「でもわかるよ……耳とか髪触られたら変な気分になるよね……」

 私が加勢して、2対1。曜ちゃんが不利だ。

「ちょ、千歌ちゃんまで……」

 焦って手を振り回しながら歩く曜ちゃん。心なしか私たちから距離をとった気がした。
 やめておくれ。

 そんな曜ちゃんに気づいてか気づかずか、鞠莉ちゃんは同じような話題を続ける。

「あと、歯磨きを他人にしてもらうとかもあるらしいわよ」

「なんか……うん」

 曜ちゃんは諦めたように肩を下げた。カバンが私のより重たそう。

「歯磨きは1人でできるかなー」

 そもそもシテもらうところが想像できない。

「でもちょっときになる……」

「え!?」

 また2対1。曜ちゃんが不利だ。

 まぁ、鞠莉ちゃんの言ってるような意味じゃなく、普通にどんなものか、ってのがね。
 小さい頃にしてもらってた記憶なんて覚えてないし……。

 と、後ろから少し早めの足音。

 とっさに振り返る。
 振り返る前から、誰かはわかってた。

「不思議な3人だね」

 そうかな?

 走ってきた様子なのに、果南ちゃんは全く息切れしていない。

「おはよー」

「はよはよー」

 海風に、果南ちゃんの長いポニーテールが揺れる。太陽の光が反射して、ところどころ光って見えた。

「…………ねぇ、かなーん」

 わたしの横から、少し甘えた声色の鞠莉ちゃんが果南ちゃんを呼ぶ。
 
「ん? 鞠莉、どうかした?」

「……耳かき上手なんだって?」

 果南ちゃんの眉毛が下がる。口は笑ってるけど。困り笑い。苦笑い。何て言うんだろう、こういう微妙な表情。

「鞠莉まで……」
 
 ……鞠莉ちゃんも、して欲しかったらしい。
 4人で一列になって歩く。

 また休みの日にね。

 果南ちゃんが大人っぽく言って、鞠莉ちゃんがはーい、と答えた。

 風が吹く。ひんやりとした木々の間を、鳥と虫の鳴き声が響く。3人の笑い声が海の上へと流れていった。
 もうすぐ夏だ。



□□□


 少し嫌だな、と思った。
 思った後、どうして嫌だと思ったのかわからなくなった。

 さっきの果南ちゃんと鞠莉ちゃんの会話。

 また休みの日にね。

 鞠莉ちゃんに向けられた言葉。また休みの日に、耳かきしてもらうって。
 筋違いなのはわかってるけど、なんだかちょっと、素直に「はい、お好きにどうぞ」って言えない。
 むしろ、「ちょっ、ちょっと待って」って言いたい気持ちがあるくらい。

 でも、何を待つの? と言われれば、何を待って欲しいのかよくわからない。ジレンマ。

 思えば曜ちゃんの時も似たような感覚だった。私から勧めたのに、いざ果南ちゃんが曜ちゃんに耳かきしてあげてるところみると、なんだか複雑な気分になった。
 嫌、ってわけじゃないよ?

 それに、断じて曜ちゃんが嫌いな訳ではない。むしろ大好きだ。親友だよ。

 だから、余計にこんがらがる。

 鞠莉ちゃんだってそうだ。
 決して嫌いなわけではないし(いやむしろ好しだよ)、耳かきの話題を出したのは私なんだけど、いざして貰うってなると、なんか違う気がする。

 だったら、どうして私は耳かきの話題を2人の前で話したんだろう。

「なんでだと思う?」

「いや、そう言われても」

 せまい机。フタのあいたべんとう箱。
 目の前では、くっつけた机の上で曜ちゃんと梨子ちゃんがおべんとうを広げていた。
 鮮やかな色合いは、食べ物ってよりは小物って感じがする。

「恋じゃない?」

「えっ」

 プチトマトを口に入れながら、梨子ちゃんがぷいと呟いた。曜ちゃんのイスがガタンと揺れる。

「いやほら、さっきの話聞く限り、恋じゃないの?」

「そんな……すぐそっちにいかなくても」

「わたくし……恋してるのでしょうか」

 膝の上に手を揃え、梨子ちゃんに身体を向ける。

「うん、そうだと思いまする」

「ちょっ、ちょっ、そんなすぐ決めつけなくても」

 焦る曜ちゃんは自分のおべんとうが落ちそうなことに気付いていない。

「あ、千歌ちゃん、プチトマトいる?」

 曜ちゃんの代わりに、落ちそうな弁当箱をさりげなく机の真ん中に寄せながら、梨子ちゃんが訪ねてきた。

「んー……、今日はいいや」

 ありがと、と言いながら、べんとうを広げる気にはならない。早くしないと昼休み終わっちゃう。

「なんというか……さ、ほら……」

 曜ちゃんが片手で髪をなでながら、言葉を選ぶように口ごもる。

「果南ちゃん離れができないんじゃない?」

「果南ちゃん離れができない……」

 アホみたいに言われたことを繰り返す。私はアホじゃないよ。

「いや、そんなアホの子みたいに同じこと言わなくても」

 曜ちゃんが笑いながらそう言う。
 ……今、馬鹿にされたのかな?

「だってほら、小さい頃から一緒にいたし……いや、私もだけどさ、お姉ちゃんみたいに接してもらってたから……なんというか……」

 最後の方はごにょごにょ言ってて、自分でもなんて言いたいのかよくわかんなかった。

「でも、要するにちょっとヤキモチ焼いちゃってるんでしょ?」

「焼きもち……」

 冬のこたつが思い浮かんだ。それは違う。

「そっかそっか、千歌ちゃんは女の子が好みなんだねー」

「…………」

 なんでもないことのように呟く梨子ちゃんと、驚いた顔で固まる曜ちゃん。こうして見てると面白い。

「…………?」

 一方で、私はよく梨子ちゃんの言ってることが理解できていなかった。

「なんで恋なの? アクアリウム?」

「いや、アクアリウムは今は置いといて」

 ごめんアクアリウム。今は置いておこう。

「だってほら、今まで私だけのものだった果南ちゃんが他の人に取られる、って考えると、胸が苦しいんでしょ?」

「いや、胸は苦しくないけど……」

 いや、ちょっと胸、苦しいかも。
 真面目な顔でそう呟くと、曜ちゃんがちょっと心配そうな顔をしてくれた。

 梨子ちゃんは悔しそうな顔をした。

「いやー……、でも……」

 果南ちゃんは女の子だし。
 そりゃ、果南ちゃんが男の子でこの気持ちだったら、恋かも……とは思うけど、果南ちゃんは女の子だ。

 それに、昔から一緒にいたんだし、ラブと言われれば違うというか……もちろんライクではあるよ? ベリーライク。

「……だったら、こう考えるのはどう?」

 ようやくべんとうのフタを開け始めた曜ちゃんが、また固まる。そういえば、私はおべんとうを広げてもない。

「千歌ちゃんは、果南ちゃんが結婚したら祝える?」

「そりゃもちろ……」

 私は祝えるなぁ。そう言った曜ちゃんを横目に、少し言葉が詰まった。
 
「…………」

 祝える……のかな。なんというか、そりゃ果南ちゃんが幸せになるのはすごくいいと思うんだけど、他の人のものになるのはなんというか寂しい気が……うーん……どうなんだろう。

「悩む……」

「まじで……?」

「ほら、恋っぽい」

「いや、そんな簡単に決めつけなくても……」

「…………」

 会話が弾んでるように見える2人を尻目に、私は少し悩んでいた。
 どうなんだろう。
 私にとって果南ちゃんって、何?



□□□

 今日は練習がなかった。

 曜ちゃんはプールで飛び込みの練習。
 梨子ちゃんは音楽室でピアノと向かい合ってて、他のみんなも思い思いの放課後を過ごしていた。

 一方私は、1人で下駄箱を眺めていた。

 ……いや、眺めてたってのは少し違うな。果南ちゃんの靴を探してた。一緒に帰ろうと思って。

 3年生の下駄箱の前に立つ。少し見える景色に違和感。いつもは2年生の下駄箱の前しか通らないからね。

 『松浦』だから、下の方から探してみる、けど……ない。おかしいな。

 鞠莉ちゃんのも探してみたけど、やっぱりない。……もしかして、もう帰っちゃった?

「あら、そんなところで何を……」

 ちょっと慌てて顔を上げると、生徒会長がいた。ダイヤちゃん。
 びっくりした、先生かと思った。

「果南ちゃんと一緒に帰ろうかなー、って……」

「あぁ、それでしたら」

 ダイヤちゃんは、難しそうなことの書いてあるプリントを持っていない方の左手で、長い黒髪を耳にかけた。

「今日は船の時間が少し早いようなので、先に帰られましたよ」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。そのあと私は倒れこんで、救急車で運ばれ、意識不明の重体で1週間寝込んだ。

 ……ってのは嘘だけど、ちょっとショックは受けた。せっかく一緒に帰ろうと思ったのに。

「……そうだったんだ、教えてくれてありがと」

「いえいえ、では……」

 それだけ言うと、ダイヤちゃんはツカツカと歩いて行ってしまった。

 急に昇降口がシンと静まりかえる。湿った空気。窓から見える曇り空。

 外から、誰かが水に飛び込む音が聞こえてきた。気持ち、涼しくなる。

「手持ち無沙汰になった……」

 静かな昇降口に、私の声が染み渡る。

 ちなみに、手持ち無沙汰の意味はわかってない。それとなくニュアンスで使ってる。

 念のためもう1回、3年生の下駄箱を確認したけど、果南ちゃんと鞠莉ちゃんの靴はやっぱりなかった。

 ……うん、帰ろう。



□□□

 火照る身体。まだ少しだけ湿った髪。クセ毛はしおれてる。風呂上がり。
 布団に倒れ込むと、急に今日の朝のことを思い出した。

 そういえば、今朝は果南ちゃんと話さなかったな。
 いや、話すには話したけど、曜ちゃんと鞠莉ちゃん越し……というか。1対1での会話をしなかった。

 だからなんだと言われればそうだけど、それはそれで寂しかった。

 ポケットからスマホを取り出す。ホームボタンをゆっくり押さえて、起動。
 パスワードを打ち込む手間が省けたのは最近。お姉ちゃんのおさがりだからね。

 特に意味もなく開いた画面を、ぼーっと眺める。スマホを支える手のひらに、風呂上がりの熱がこもる。

 なんでインターネットのアイコンって方位磁針なんだろう。しかも右上が北になってる。
 最近のミュージックのアイコンはかっこいい。音符の色がグラデーションになってて、スタイリッシュな感じ。

 ……本当に何もすることがない。無意識に、人差し指が緑色のアイコンに伸びていた。

 ……果南ちゃんカラーだ。

 トークの履歴の上から3番目に、果南ちゃんのアイコンがあった。特に何も考えずにそれを押す。

 表示されたのは、おやすみスタンプで終わってる昨日のやり取り。

 なんとなくトーク履歴を振り返ってみる。
 他愛のないやり取り。他愛のないって、正確にはどういう意味なんだろう。あとで調べてみよう。

 あ、そういえばここのやり取り笑ったなぁ。ここの時はなぜか果南ちゃん返信遅かったんだよね。その前にお風呂はいってたはずだから、ご飯でも食べてたのかな。

 きっと今日の授業のことを思い出した方がタメになるんだろうけど、スマホの画面は果南ちゃんとのやり取りを表示する。

 なんか送ろうかな。
 特に用事はないけど、適当に文を考える。電話するとお姉ちゃんからうるさいって怒られるけど、なんとなく果南ちゃんとお喋りしたいから。

 『ひま』

 ……いや、これだと返信くれないかもしれない。

 『明日なんか課題あったっけ?』

 ……いや、学年違うし。果南ちゃん知らないよ。
 でもあるかどうか覚えてない。梨子ちゃんに聞いておこう。

 『今日なんで置いて帰ったの?』

 これとスタンプ。
 ……いや、なんか責めてるみたいになる。やめておこう。

 『もうご飯食べた?』

 ……だから何? これで会話が終わっちゃったら意味ないじゃん……何かもっと話が広げられそうなものないかなぁ。

 「果南ちゃんが結婚したら祝える?」

 不意に、昼間の梨子ちゃんの言葉を思い出す。
 思い出して、なぜか急に恥ずかしくなって枕に顔を埋める。

 ……そうだ。

 『果南ちゃんって好きな人いるる』

 焦って『?』と『る』を打ち間違えた。

 ……やっぱり送らないほうがいいよね。間違えて送ることがないように、慎重に、人差し指で打ち込んだ文字を消す。

 実際、どうなんだろう。

 スマホの画面はそのままにして、視線を天井に向ける。
 果南ちゃんのそういう話は聞いたことないけど……もし、好きな人がいたとしたら、私はどうすればいいんだろう。

 というかその人は私の知ってる人なのかな。あんまり身近にそれっぽい人っていないけどなぁ。

 いや、何をしなければいけないとかはないんだろうけど、なんというかこう……うーん……



□□□

 寝落ちした。

 やばい。

 寝坊だ。

 いつもより大きく跳ねてる気がするクセ毛を押さえながら、布団から飛び起きる。

 スマホで時間を確認。

 うん、やばい。

 あわてて服を脱ぐ。

 着替えながら、ホームボタンに指を置き起動させる。
 送りかけの『果南ちゃ』という文章が表示されたLINEの画面が表示された。

 あたふたしながら、とりあえず曜ちゃんとのトーク画面を開く。

『ごめん、先行ってて!』

 これと、寝ぼけているマスコットのスタンプ。だいたい伝わったはず。

 あとは自分が遅れないようにすればいい。

 そう考えると余裕なように思えたけど、全然余裕じゃなかった。

 ふと冷静になってスマホを見ると、梨子ちゃんからLINEがきてた。

『生物のプリントが明日までだったよ』

 少し考えて、そういえば昨晩、課題の有無を尋ねたことを思い出した。
 聞いておきながら、結局できそうにない。

 梨子ちゃんにはごめんねスタンプを送っておいた。マスコットがわたしの代わりに土下座。

 スマホをスカートのポケットにしまうと、顔を洗うため洗面所に向かう。

 どうか寝癖がありませんように。それだけで支度にかかる時間が大きく変わる。

 でも触った感じ、私の髪の毛はかなり暴れているようだった。

 歩くと、頭の上から振動を感じる。

「……はぁ」

 鏡を見ると、案の定、私の髪の毛はクセ毛を筆頭に大きく上へ伸びていた。元気のよろしいこと。

 …………はぁ。

 もう一度ため息をついて、蛇口をひねった。



□□□

 そして今週も終わってく。

 今日の授業で何を習ったか何も覚えてない。だからといって何を考えていたわけでもない。

 気がついたら放課後だった。

 部活も、今週は夏休みが近いこともあってなかなか揃わなくて、自主練がほとんどとなっていた。

 いつもの練習場所に行ったら、田舎には(いい意味で)不釣り合いな堕天使。

「今日はみんな家でストレッチするっていってたわよ」

 こんな天気だし……雨でも降りそうね。

 曇り空を仰ぎながら、善子ちゃんが呟く。その鼻先に雨が落ちる。

 言ってるそばから。冷たい雫が肌を叩く。

「…………」

「……雨宿り、しよっか」





 近くに屋根になりそうなものを探して、2人で座り込む。

「あーんもう、せっかく練習しようとしたのに、そのそばから雨なんて……」

 パラパラと、アスファルトに黒い点が残っていく。夏の前のアスファルトの、あの匂い。

「やっぱりヨハネって悪魔だわ!」

「……そうだね」

 いつも通り返事をしたつもりが、ちょっと暗い声になってた。
 訂正しようとしたけど、別に焦ることもないかな、と口を紡ぐ。

 クセ毛がしおれて頭に垂れかかる。バランスが悪い。

「……何か、あったの?」

「え?」

 さっきとは違う口調で、善子ちゃんがこちらを覗き込んできた。

 濡れて束になった前髪が、長い睫毛の上で揺れる。まつ毛の先には雨の雫がのっていた。

「……別に、何も」

 膝を抱え込んで、海の方を見る。濡れた膝に顎を乗せると、少し安心した。

「……何よ、気になるじゃない」

「…………」

 ……何か、あったか。そう言われると、別に何があったわけでもない。
 けど、何もなかったと言われればそれはそれで違う気もする。

 ……果南ちゃんが。

「……あのね」

 私の声は、湿った空気に響くことなく吸収される。雨の音に、もしかしたらかき消されてるかもしれない。

 善子ちゃんはこちらを見ることなく海を眺めている。

 続ける。

「……なんか、最近、果南ちゃんが」

 ……離れていっちゃってる気がして。

 寂しい。

「この間、耳かきしてもらったんだけど……」

 その後から、なんだか少し。

 曜ちゃんにも、してもらって、今日は、鞠莉ちゃんにも。

 なんというか……ままならない。

 ポツリポツリと言い終わると、雨は少しだけ勢いを増した。
 善子ちゃんのお団子がすこしほつれる。

「…………」

 ちゃんと聞こえていたようだけど、善子ちゃんは何かを言いかけてそれを飲み込む。

 何を言おうとしたか気になったけど、善子ちゃんが言おうとしなかったことだし、忘れることにした。

「満足、しなくなったのかしら」

「……満足?」

 いつの間にか、アスファルトは真っ黒に染まっている。

「ほら、千歌ちゃんと果南ちゃんって幼馴染じゃない?」

「……うん、そうだね」

「そうよね」

 善子ちゃんはすこし黙った後、また言葉を続ける。

「最近、こうして他の人とも深く関わるようになったじゃない?」

「……うん」

 スクールアイドルを、始めようと思ってから。

「だから、千歌ちゃんの中の、人との距離の基準が、前に比べて『近く』なってるんじゃないかしら」

 近くなっている。
 言われて、気づいた。

 確かに、Aqoursを始めて、これまでよりも多くの人と、深く関わることが増えてきた。
 人との距離が、縮まってきた。

「……だから、千歌ちゃんが、果南ちゃんとの距離に求めている『近く』ってのも、より『近く』なった」

 ……と、私は思うけど。

 善子ちゃんが、小さな声でそう言い切ると、再び辺りは雫の音に包まれた。

 すこしだけ、雨の勢いが弱くなった。
 でも海の色は濃いまま。

 果南ちゃんとの距離に求めている、近くってのも、より近くなった。

 その言葉は、わたしの心に半分だけ染み込んで、深い半分は理解できないまま頭の奥に消えていった。

「……近くなった」

 ポツリと呟く。

 雨の音。

 心なしか、雨が少し弱くなった気がする。それでも、となりにいる善子ちゃんの息遣いは聞こえてこない。
 ただ、長い睫毛に雫が光ってるのは見えた。

「…………」

 冷たい脚の前で手を握りしめて、自分の方にきゅっと引き寄せる。
 湿った制服が肌に張り付く。

 果南ちゃんに求めているキョリが、近くなった。
 ……ってことは、私はさみしいと思ってるのかな。

 でも、だとしたら梨子ちゃんの「結婚したら祝える?」ってのは説明がつかない。

 それが説明できる気持ちといえば、

「…………」

 ……できる、気持ちと、いえば。



 ……雨が止んできた。

 雨粒が目に見えないほど小さくなる。水溜りに見える細かな波紋だけが、雨がまだ降っていることを教えてくれていた。

 さっき、善子ちゃんが何かを言いかけてやめたことを思い出した。

 何を言いたかったのか、今更気になってきたけど、やっぱり聞くのはやめておいた。今聞き返しても変だよね。

「…………」

「…………」

 結局、その日の放課後は、善子ちゃんと静かに雨宿りをしているだけで終わってしまった。

 そろそろ、梅雨なのかもしれない。


□□□

 土曜日は好き。

 何と言っても、休みの日な上に、明日も休み。いくら夜更かししても寝坊することなんてない。最高。

 少し暑い居間で、うつ伏せになって転がる。あごにクッションを載せるけど、いいポジションが見つからない。

 昨日の夜はちょっと、色々あったけど……忘れよう。
 果南ちゃんにも、忘れろって言われたし。

 顔を上げると、曜ちゃんがスマホを弄りながらお茶を飲んでいた。

 湯気が上がってる。ズズズ、って聞こえる。

 ゴロン、と一回転すると頭がクッションから落ちた。が、畳なので痛くはない。

「ちゃんとつけないと形崩れるよー」

 と、果南ちゃんが言った。

 果南ちゃんは、飽きるほど見たシーパラダイスのパンフレットを眺めている。多分内容とか暗記してると思う。

「まだ若いから大丈夫だよー」

 起き上がって、湯のみを手に取る。
 湯気はもう上がってなかったけど、手で触ると熱かった。

 ゆっくり持ち上げて、息を吸うように飲む。ズズズ、って音がする。

「美味しい」

 さっき入れたばっかりだからね。

「熱い」

 たぶん今なら水の中で息できる。

「独り言多いね、今日」

 曜ちゃんにそう言われた。

「いえいえそれほどでも」

「いや、褒めてないし……」

 褒められてなかったらしい。

「若くても千歌ちゃんくらいあれば崩れるんじゃない?」

 湯のみを手に取りながら、果南ちゃんがぽけーっと呟く。何にも考えてなさそうな、ふわふわした声。

「まじか……」

 でもたんすを開ける気にはならない。面倒くさい。

 果南ちゃんはシーパラダイスのパンフレットを広げると、何やらごそごそした後、

「じゃーん」

と言って、パンフレットだったものを頭上に掲げた。

 曜ちゃんが手を止め、顔を上げる。

「なにそれ?」

「紙飛行機じゃないの?」

「うん」

 頷く果南ちゃん。

「名づけてシーパーフライ」

「うわ微妙……」

 果南ちゃんはネーミングセンスを非難されたことはさして気にする様子もなく、腕を小さく振りかぶって紙飛行機を飛ばした。

 シーパーフライはひょろひょろと力なく飛んだ後、窓ガラスに当たって畳に落ちた。

「あらら」

 近くに寄って拾ってみると、意外に重たかった。まあパンフレットだし。

「先っぽまるめよっと」

 紙飛行機の先っぽをくるくるとよじる。なんか情けない感じになった。

「すまないシーパーフライ……」

 少し謝りながら、果南ちゃんに向かって投げた。

「うお、危な」

 果南ちゃんは体を前に倒して避けたけど、シーパーフライは見事くるくると回転し全く別の場所に落下した。

 ここからみるとスマホを弄る曜ちゃんに果南ちゃんが土下座してるように見える。
 どんなシュチュエーションなの。

「……暑い」

 大きな窓にもたれかかる。直接熱さが伝わってきて、夏が近いことを身体で感じた。

 外を見る。

 照りつける太陽に、反射する木の葉。地面からは雑草が伸びてきてて、
 また今年も草むしりすることになると思うと、億劫になる。

 窓を開ける。

 ガラララ、と思ったよりも大きな音が鳴ると、予想に反して冷たい空気が流れ込んできた。

 やっぱまだ夏は来てないな、と思う。でもこんな天気、こんな雰囲気。
 不思議である。中途半端。まぁ好きだけどね、こういう季節。

 後ろから、ズズズと音が聞こえる。果南ちゃんがお茶を飲んだみたい。
 だいたい音で誰かはわかる。

 外を眺めながら、頬を撫でる風に目を細めていると、曜ちゃんが、

「ん?」

 果南ちゃんの方を向いた。

 私も振り返る。

「いま飲んだの、千歌ちゃんのじゃない?」


 えっ。


 ……心臓が跳ねる。


「あ、ミスった」

 果南ちゃんはなんでもなさそうに、机にお茶を置いた。

「ごめんよ千歌ちゃん」

 謝られた。
 胸が鳴る。

「悪気はあった」

「あったんかーい」

 曜ちゃんそう言うと、スマホを閉じて後ろに倒れこんだ。腕をだらしなく伸ばして、完全に力が抜けてる。

 2人は何事もなかったかのように、また自分の世界に入っていった。

 私は、湯気の立たなくなった湯のみをみつめる。

 私と果南ちゃんの湯のみが隣り合わせで置いてある。どっちが私が飲んでたやつか、わからない。
 さっき果南ちゃんが間違えちゃったから。

 間違えて口をつけちゃったから。

 両手でほっぺたを包む。

 さっきまで窓の近くにいたからか、頬が熱い気がする。
 ぱたぱたと手のひらで扇ぐ。

 曜ちゃんが一瞬だけこっちを見て、ニヤッと笑う。

 果南ちゃんは寝転がって向こうを向いていた。

 両手をだらんと放り出して、寝てるのか起きてるのかわからないような格好。
 どんな顔をしてるのかは、ここからはわからなかった。

 私、顔赤くなってないかな。

 少し気になったけど、確かめる方法がなかったから、もう一回両手で頬を包んだ。

 なんでだか、見られたくない。

 窓から風が入る。足元が涼しくなって、果南ちゃんがもそりと動いたのが見えた。

 熱をもった手のひらから、熱い頬の感触が伝わってきた。

 その日は、特に何があったわけでもなく、
 ……特に何があったわけでもなく、ただ三人でだらだらと土曜日を浪費した。



□□□

 次の日の、日曜日。

 目が覚めて、外を見ると、空は泣きそうな顔をしていた。
 最近変な天気が多いなぁ。曜ちゃんはそんなこと言ってたっけ。

 布団に転がったまま、外を眺める。

 今日は寒そう。日も出てないし、木の葉の緑もいつもより濃い色をしてる。

 窓は閉めてるけど、触れると冷たいだろうな、というのはなんとなくわかった。

 頭がはっきりと目覚めてからも、なかなか起き上がる気にならない。
 やっぱり天気によって朝の気分って変わってくるよね。

 着替えようかと思ったけど、でも立ち上がるのは嫌。布団に根っこを張っちゃいました。

 薄い毛布一枚に包まってぽけーっとしてると、今日は何も用事がないことを思い出した。
 果南ちゃんも曜ちゃんも今日は来ないって言ってたし、梨子ちゃんたちも来るって言ってた覚えはない。

 暇だなぁ。

 外を眺めると、雨はまだ降っていなかった。



□□□


「暇だなあ!」

 どこかからお姉ちゃんの、1人で騒ぐな! が聞こえてきた。
 シュン、とする。

 暇だ。
 することがない。

 あれから時計を見ると、既に11時だった。昨日は寝る前に悶々としてたから、あんまり眠れてない。

 昼ごはん、というか朝ごはん兼昼ごはん(ブランチって言うんだっけ)は素麺だった。
 季節的に少し早い気がするけど、安いから仕方がない。

 「夏ー!」

 窓の外は曇っている。濃い緑が冷えた風に揺れる。木枯らしみたいな風が、窓の隙間から入ってくる。
 さらけ出した二の腕には寒くて鳥肌が立っていた。

「冬……」

 いや、冬じゃない。
 だからと言って、春って感じでもない。なんだろう。梅雨?

 それにしては雨が少ない。

「ううむ……」

 寝転がったまま、這うようにして机の上のスマホを手に取る。

 ニュースアプリの通知が何軒かきていた。

 Safariを開いて、適当なサイトを見ると、やけに肌の面積の多い広告が表示されてて見る気をなくした。
 マッサージで感じるかっつうの。

 ホームボタンを押して、並べられたアプリを眺める。

 どれも興味を引くものはない。

 特に大事なアプリとかはないんだけど、いざ消されるとどれも困る。アプリってそんなものなのかな。

 なんとなく、緑のアイコンが目に入る。

 電話、音泉、LINE。

 特に意識せず、LINEを開く。

 その他、にnewマークがあったのでタップしてみたけど、特に欲しいスタンプも着せ替えもなかったので、タイムラインをみた。

 意味のない共有、興味のわかないニュース、中身のないルビィちゃんの呟き。

『耳かゆい……』

 それ、タイムラインで言う必要ある? ……まあ、ルビィちゃんにはあったんだろう。

 なんとなく泣きスタンプを押しておいた。

 トーク履歴をみる。梨子ちゃんのトークが1番上にある。

 そういえば、宿題やってないんだった。いつかやらないと。
 でも今はやらなくていいや。まだ夜がある。
 毎週そう思って忘れてるけど、反省するのは来週からでいいや。

 梨子ちゃんの下には、果南ちゃんのトーク履歴があった。なんとなく押そうとすると、ルビィちゃんから、

『なんで泣きスタ?』

 返信が来た。
 反応早いね。

『そんな気分なのだよ』

 さらっと返信しておいた。ついでにみかん畑の画像を何枚か送る。
 即座にルビィちゃんからスタンプ。よくわからないマスコットが泣いていた。

 なんで泣きスタ?

 返信はせずに、なんとなくスマホを閉じた。

「あー……」

 することない。

 だからと言って宿題とか勉強をする気にもならない。身体も動かしたくない。
 やばい、太りそう。

 そういえば、太ってる人は少々お腹の肉をつまんでも痛くない、って聞いたことがある。

 恐る恐るお腹の肉をつまんでみると、痛かった。安心。というより安堵。

「あー……」

 仰向けになって、服をめくってお腹を出す。特に何が変わるわけでもないけど、ちょっとだけ開放感がある。
 
「何やってんの……」

 部屋の前を通りすがったお姉ちゃんに、ため息をつかれた。

「みかん畑と交信……」

「あそう……」

 どうでもよさげに、お姉ちゃんはどこかにいってしまった。暇だからオセロでもしようかと思ったのに。

 でも呼び止めるのも面倒臭いので、お腹を出したままうつ伏せになる。

「あー……」

 さっきからあー、しか言ってない気がする。このままじゃ喉が衰えちゃう。

 いや、みかん畑と交信、とも言った。
 セーフ。

「あー……」

 ポケットに手を突っ込んで、スマホを手に取る。

 ニュースアプリの通知すらきてなかった。まあこんな短時間じゃね。

「あー……」

 ホームボタンを押すと、LINEのトーク履歴の画面が表示された。パッと目に入る、果南ちゃんのアイコン。

「……いたい」

 姿勢が悪い。左手を伸ばしてクッションを引き寄せる。

 なんとなく、果南ちゃんのアイコンをタップする。

 表示されたのは、このあいだの、おやすみ。

 ここ最近LINEしてなかったな。

「…………」

 ……なんだか、話したい。お喋りがしたい。
 画面の中で、じゃなくて、会って話がしたい。顔を見たい。……甘えたい。

 無性に会いたい。なんなんだろう。

 病気かもしれない。そうだ。きっとそうなんだろう。急にこんな気分になるくらいだし。

 それなら、ここ最近の変な気分も全て片付く。

 病気なんだったら、我慢することはないよね。
 風邪とか引いたら「無理しないの」ってみんな言うし。

「…………」

 震える指で、文字を打ち込む。……いや、なんで震えてるの。
 一旦スマホから手を離して、手をグーパーする。

 表示されてる、うちかけの『あい』。


「…………」

 …………。

 『いまどこ』の方が、いい、かな。
 忙しそうなら、やめればいいし。

 果南ちゃんにだって、予定あるだろうし。

 最近、忙しそうだし。

 無理して、会わなくても。
 合わせてもらわなくても。

「…………」

 悩む頭とは反対に、私の指はためらいなく、すべるように文字を送信した。
 
『いまどこ?』

 たった5文字。片手で数えられる数。

 既読はつかない。

 一旦スマホを閉じる。

 いや……もしかしたら、画面が暗くなる一瞬前に返信が来てたかも。そうかもしれない。

 長い息をはく。
 ホームボタンに指。

 返信は来てない。既読はついてなかった。



□□□


「千歌ー、晩御飯できたよー」

 お母さんの声に、びくっと目が覚める。

 目が覚めて、自分が寝ていたことに気づいた。
 もう朝かあ……と思って時計を見ると、午後6時。

 ……午後6時?

 いや、さっき昼ごはん食べたんだけど……。

 回らない頭で考える。
 えっと……さっきまで、何してたっけ。

 口の端から垂れてるよだれに気づいて、肩のところで拭った。

 ……あれ、寝巻きじゃないぞ、これ。

 ふと、少し離れているところに放り出されたスマホに気がつく。
 手を伸ばしてみると、通知が一件。

『くろさわ家』

 果南ちゃんから。

 そこで気づく。寝落ちだ。

 慌てて開くと、果南ちゃんからの返信は5時間以上前のものだった。

 これだけ時間が経てばもういないだろうな。

「……何してんだろ」

 ため息をついて、スマホをポッケに突っ込む。
 無機質なスマホの画面が、布一枚を挟んで冷たい感触を伝えてくる。くすぐったい。

 はぁー、
 と、大きなため息をついて、手足を畳に放り投げる。ひんやりした畳が気持ちいい。

「千歌ー? 寝てるのー?」

「起きてるよーう!」

「こっち来て手伝ってー」

「……はーい」

 重たい体を持ち上げ、クセ毛をいじる。

 寝癖はない。いつもこうならいいのに。

 ……あれだけ果南ちゃんとお喋りしたかったのに、なぜか私は返信を忘れていた。

 こうして週末も終わっていく。



□□□

 月曜日は、起きるのが辛い。

 ただでさえ辛いのに、昨日は昼寝をしてしまったせいでよく眠れなかった。
 最近、寝つきが悪い。天気のせいかな。

 そして、今日も寝坊をした。

 けど、時間を過ぎてるのに曜ちゃんから連絡はなかった。先に行っちゃったのかな。

 なんて、のんびりしてる場合じゃない。

「急げ、急げ」

 なぜかお姉ちゃん達もいない。
 朝ごはんなんて食べてる時間はないから、顔を洗って歯を磨いて、すぐに家を出た。

 今日は晴れだ。

 つきぬけるような広い青空に、ちぎった綿のような雲。

 海の方から吹いてくる風は、私の頬を柔らかくなでていった。
 大きく息を吸うと、夏が近いことに胸が高鳴った。

「ゆっくりしてる場合じゃ、ない!」

 慌てて、カバンを脇に抱えて走り出す。

 どこかから聞こえてくる鳥の声は、不思議と、涼しげな響きを持っていた。



□□□


「……たしかに、違和感は感じてたんだよ?」

「もう言い訳にしか聞こえないよ」

 苦笑いしながら、曜ちゃんがフェンス越しにそう言う。

「いや、だいたいさ、おかしいんだよ」

「そう?」

 曜ちゃんの濡れた髪が、日差しに反射して、白く輝いて見える。
 首の汗を拭う。

「月曜日なのに休みって」

「振り替え休日なんだから楽しもうよ……」

 楽しもうにも何も。

 プールで朝早くから練習してる曜ちゃん。
 図書室には、人影も見えるし、校庭にはまばらに部活動をしている人もいる。

 ……そんな中、いつも通りの教科書を持って、いつも通りの格好で、登校した私。

「……恥ずかしい」

「まあ千歌ちゃんらしいっていえば、らしいよね」

「それはそれで嬉しくない!」

 暑いアスファルトの上、私の声が響く。

「はあ……」

 胸元のネクタイをいじりながら、ため息をつく。

 フェンス越し、隣で曜ちゃんが苦笑。

 ……今日は。急いで来たのはいいけど、学校は休みだった。なんかの振り替え休日。
 だから曜ちゃんからも連絡なかった。お姉ちゃんもいなかった。そういうこと。

「どうしよっかなー……」

 フェンスに頭ももたれかかると、クセ毛がぴょんと頭の上で跳ねた。曜ちゃんが笑う。

「私はもう少し練習してるけど……」

「あ、そだ」

「ん?」

 ふと思い立って、ポケットからスマホを取り出す。校内では使っちゃいけないけど、バレなきゃいいのだ。

「なんかするの?」

「えーっとね……」

 山の上にも、風は吹く。みかん畑からの風が火照った私の肌をさらっとなでた。

『今日ひまなら遊ぼ!』

 送信。

「あー、果南ちゃんね」

 スマホを覗き込んだ曜ちゃんが、納得して頷く。

「うん、せっかく休みだし!」

 果南ちゃんにLINEを送った。
 すぐには既読はつかなかった。

 ……ちゃんと返信くるかなぁ。

「まあ、しばらく経てばくるんじゃないの?」

 曜ちゃんは、私の考えていることを当てるみたいにそう呟いた。

「んじゃ、わたしは練習に戻るねー」

 そう言って片手をひらひらさせると、曜ちゃんの体を預けられていたフェンスがギシリ、と音をたてて、しなった。

「うん、頑張って」

 ほんのちょっぴりの寂しさを感じながら、曜ちゃんに手を振る。

「あ、もし果南ちゃんいたら探してた、って伝えてて!」

「はーい」

 軽く体操をする曜ちゃん。慣れた動き。

「まあ、先に連絡が帰ってくるだろうけどね」

 みかん畑の葉が、ざわざわと揺れた。



□□□


「やは」

「あら、千歌ちゃん」

 中庭に行くと、善子ちゃんがいた。何をするでもなく、制服で。

「何してるの?」

「……別に、今日は振り替え休日だし」

「…………」

 ……間違えて来ちゃったんだね。

 気持ちは痛いほどわかるから、それ以上は聞かないことにした。

 善子ちゃんが座ってる隣に、腰掛ける。

 日差しは熱くて、まぶたが熱を感じるくらいだけど、首筋をなでる風が気持ちいい。

「夏ねー……」

 蝉は鳴いていない。緑も、まだ本気の緑じゃない。それでも、

「夏、だねー……」

 そう感じる。

「でも、夏至はまだなのよねー……」

 夏至? ……聞いたことはあるけど、なんのことかわからない。

「あれよ、暦上で夏に入る日付けよ」

 あー、と、納得する。善子ちゃんは頭がいい。

「これくらい知ってて普通だと思うけど……」

 どこかでうぐいすが鳴く。うぐいすは夏の鳥だっけ。春の鳥だっけ。

「そういえば、この間の」

 思い出したように、それとも思い詰めてたように、どちらかはわからないけど、善子ちゃんは口を開いた。

「この間の、耳かきがどうとやらは、なんとかなったの?」

「…………」

 果南ちゃん。近さ。距離。

 ……何1つ、かわってないし、わかってない。

「…………」

 なかなか答えない私を急かすように、クセ毛が風に揺らされて動く。

「……まあ、急ぐ問題ではないんでしょうけど」

 善子ちゃんは、足をぷらぷらと揺らしながら、靴を遠くへ蹴っ飛ばした。

 ここから少し離れた、日陰の中に落ちる。

 思ってたよりも小さい善子ちゃんの足先が、靴がなくなってしまって、行き場所を探すようにふらふらと揺れる。

 綺麗な黒髪は、陽射しを受けてより黒く輝いている。

 ……急ぐ問題では、ない。

 そもそも、問題なのかな。

「そりゃ、問題よ」

 不意にこちらを向いて、善子ちゃんはそう言う。

「それだけ悩むんだから」

「それだけ?」

「だって千歌ちゃん、まだ困ったみたいな顔してる」

「へ?」

 自分で顔を触ってみる。手のひらで頬をこねくり回して、ほぐしてみる。
 外にいるせいで、少し熱い。

 困った顔をしてる、かぁ。

 困った顔をしているのか。

 お姉ちゃんたちや曜ちゃんには、そんなことは言われなかった。
 気づかなかったのか、それとも気を遣ってくれたのか。

 でも、善子ちゃんは、困った顔をしている、と言った。

 そうなのかもしれない。

 確かにわたしは困ってる。なんなの、この気分は、って。知らないぞ、って。

 手頃な枝を拾って、地面にガリガリと丸を書く。

 梨子ちゃんは、恋だと言った。でも、私も果南ちゃんも、2人とも女の子だ。

「性別は、16種類から32種類くらい、ある」

 突然、善子ちゃんが呟く。

「50種類かもしれない」

「な、なにを」、私は言う。

「……もし、私の考えてることが見当違いなら、ごめんけど」、善子ちゃんは続ける。

 風が吹いて、善子ちゃんの髪が綺麗になびく。

「Facebookの英語版では、会員登録の時、50種類くらい性別が選べるそうよ」

「え? 男、女、じゃなくて?」

「うん、いろんなのがあるみたい」

 それに。と、善子ちゃんは続ける。

「……LGBT? は、珍しいことでもないみたいよ」

「え、LGBT……」

 ……詳しい意味はわからないけど、言おうとしてることは、なんとなくわかる。

「だから、その……」

 なんていうか。

 善子ちゃんは、言葉に悩むように、顎に手を当てる。

 私たちの背中にある木が、ゆったりと揺れた。風が吹いている。

「……だから、そういうなんというか、細かいことは、気にしなくてもいいのよ」

 そう言って、善子ちゃんは片足で立ち上がった。けんけん。
 何してるんだろうと思ったら、とばした靴をとりにいってた。

「その木の棒ちょうだい」

「あ、どうぞ」

 私から木の棒を受け取ると、善子ちゃんは私の描いた丸にいろいろ付け足しはじめた。

「…………」

「…………」

 2人とも、何も言わない。



 ……細かいことは、気にしなくてもいいのよ。

 大人っぽいことを言うのに、地面に落書きしてる時は子供みたいな顔になる。

 そんな善子ちゃんのその言葉に、なんとなく、気持ちが楽になった。

 風が吹く。今日は風が多いな。でも、強いわけじゃない。気持ちいい風。

 正面から吹いてくる風に目を細めていると、
 どこかで、うぐいすが鳴いた。


□□□


「……で、間違えて来ちゃったの?」

「間違えたのではない。知らなかったのだ」

「そ、そうなんだ」

 梨子ちゃんは苦笑いしながら、左手で髪を耳にかきあげた。

 音楽室。なんとなく退屈で、ここに来た。

 梨子ちゃんは、次の曲のためにここでピアノと向かい合っていた。

「……あ、そういえば」

「うん?」

 ふと思い出して、カバンの中に隠していたスマホを取り出す。ポケットに入れてると、形でバレちゃうからね。

「えぇっと……」

 果南ちゃんから返信は……ない。

 おかしいな。いつもだったらそろそろ返信来てるのに。
 まあ、振り替え休日くらいゆっくり寝てるかもしれないしね。

「果南ちゃん?」

「え?」

 なんでわかったの?

「なんというか、そんな顔してたから」

 スマホを、頬に当てる。そのままぐりぐりと頬をこねるようにまわした。

 そんな顔に出やすいかなぁ、私。

「返事、帰ってこないの?」

「……え」

 エスパーですか。

「図星、って顔してる」

 梨子ちゃんはふふ、と大人っぽく笑うと、デローンとピアノの鍵盤を押した。

「暑いねぇ……」

「……うん」

 スマホが冷んやりと感じるのは、私の頬が暑いせいじゃなくて、気温のせいだ。
 きっと。

 鳥が、どこかで鳴いてる。

 窓の外を見てみると、すずめが木に留まっていた。ピチュンピチュン鳴いてる。
 うぐいすはどこにも見当たらなかった。

 窓を開けると、日に焼けたカーテンがふわりとふくらんだ。

「今日は風が気持ちいいね」と、梨子ちゃんが言う。

「そうだね」と、私は返す。

「曜ちゃん、飛び込みの練習してたね」と、梨子ちゃん。

「そうだね」と、私。

「今日は波が強いんだろうね」と、梨子ちゃん。

「そうだね」と、私。

「鳥がよく鳴くね」と、梨子ちゃん。

「そうだね」と、私。

「やっぱり、果南ちゃんのこと好きなの?」と、梨子ちゃん。

「そうだね」、と、わたし。

 …………。

「え?」

「ん?」

 梨子ちゃんはニヤニヤしながらわたしを見上げる。

 顔が熱い。多分、気温のせいじゃない。

「え……ちょ」

 後ずさって、窓に背を預ける。無意識に、胸の前で揺れるネクタイに手を伸ばしていた。

 多分、私の顔は真っ赤だと思う。

「こうしたら正直な気持ちが出てくる、って、前にコンビニの本で読んだの」

 梨子ちゃんは両手をピアノ椅子について、自慢げに言う。

 ……ちょっと楽しそう。

「え……うぁ……」

 両手がネクタイをキュッと握りしめる。
 ネクタイピンが手のひらにつきささる。

 頭がこんがらがって、自分が何を言いたいのかよくわからなくなる。

 正直な気持ち。

 ……ってことは。私は。

「……まあ、本当のことは千歌ちゃんにしかわからないけどね」

 梨子ちゃんはそう言うと、窓の外に目を向けた。

 すずめが鳴いていた。





□□□


 息をつく。

 走って下ってきた坂道を振り返ると、誰もいない。
 ほっ、と安心すると、近道になってる、細い階段に座り込んだ。

「はぁー……」

 走って逃げてきたから、汗をかいた。ハンカチで首のあたりを拭う。

 梨子ちゃんに、誘導尋問されて(ちょっと違う?)。

 果南ちゃんのことが、好きって言わされて(そう言ってはないけど)。

 恥ずかしくなって、逃げてきた(途中で呼ばれた気がしたけど、聞こえないふりをした)。

 ……なんというか、なんというか。


 うぐいすが鳴く。

 善子ちゃんの言葉を思い出す。

『もし、私の考えてることが見当違いなら、ごめんけど』

 善子ちゃんの考えていたこと……言いたかったこと。今なら、分かる気がする。

『……だから、そういうなんというか、細かいことは、気にしなくてもいいのよ』

 細かいことは、気にしなくてもいいのよ。

 細かいこと。細かいことなんだろうか。
 だって、私は。私たちは。

「…………」

 正面では、静かに揺れる波が青く輝いている。
 風が走ると、水面が少し暴れた。

 胸元のネクタイに手を添える。

 直接触れているわけではないのに、暴れる心臓の鼓動が指先に伝わってきた。

 その鼓動の大きさに、さらにドキッとする。


 すずめが鳴く。

 梨子ちゃんの言葉を、思い出す。

『やっぱり、果南ちゃんのこと好きなの?』

 ざわざわ、と、頭の上の木が揺れた。夏の香りがする。

 胸の鼓動が早いのは、夏が近いという、ワクワク感だと思う。

 そうでないと……そうではないと、認めてしまうと、きっと、私の心臓は口から飛び出る。

 頭が、耳の周りが、こめかみが、まるでもう1つの心臓になっちゃったみたいに、ばくばくと鼓動に合わせて揺れる。

 頭が小刻みに震えてるみたい。

 大きく息を吸う。

 緑の香り。身体を、胸を、熱くなった顔を、緑の香りが優しく包み込む。

 ゆっくりと息を吐き出す。

 私の一部が、風に溶け込む。

 木。草。海。空、晴空。

 斜め上を仰いで、突き抜ける晴空を眺めた。薄い雲が遠くへと伸びている。

 うぐいすが鳴いて、すずめも鳴く。
 今日はやけに鳥の鳴き声が耳に入る。そう言う天気なのかな。

 目を閉じて、柔らかい風を全身で感じる。暑すぎず、寒くもない、ちょうどいい天気。

 木漏れ日が、閉じたまぶたを優しく温めた。
 そこで初めて、頬がまた熱くなっていることに気づいた。

 ……。

 ……。

 ……私は。

「……果南ちゃんが好き。」

 自分にもはっきりと聞き取れないくらい、小さな声で呟いた。

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

 ……呟くと、その言葉は、元からそこにあったみたいに、スッと頭の中に溶け込んでいった。染み込んだ。馴染んだ。

 幼馴染。一個上。頼りになるし、いつも一緒にいてくれる。

 泳ぐのが得意で、たまに星を見てる。さざえとわかめが好き。
 長い髪が綺麗で、私も一回真似しようとしたら、「千歌はそのままが1番だよ」って言ってくれた。

 初めて制服を着た時。

 なかなかネクタイがうまくできなかった私に代わって、手際よく、私の胸元にネクタイを結んでくれた。

 果南ちゃんが軽く屈みこむと、ポニーテールがゆっくりと右肩から流れ落ちる。その髪が、なんだか綺麗だな、と思った。
 些細なことなのに。覚えてる。覚えていたい。

「…………」

 胸元のネクタイを、キュッと握る。

「…………」

 うん、好きだ。

 好きだよ。好きだけど。

「…………」

 だって、果南ちゃんは女の子。
 私も、同じだ。

 別に、私は心の中だって男の子ってわけじゃない。
 でも、果南ちゃんが好きだ。

 どこかでうぐいすが鳴く。すずめも鳴いていた。
 海から吹く風に、隣に立っている木がゆったりと揺れる。

 柔らかい風は、熱くなってる私の体をなでるようにして冷ましていく。覚ましていく。

 後ろから、足音が聞こえる。

 身体が心臓になっちゃったみたいに、ドクンと鼓動。クセ毛も揺れた。

 振り返る。

 振り返る前から、誰かはわかっていた。

「お、いたいた」

 そう言うと、果南ちゃんは当然のように階段を降りてきた。

 いや、当然なんだけど。

 果南ちゃんからすれば、知り合いがいたから近くに行って話をしよ、ってだけかもしれない。

 でも、私からすれば。

 私からすれば。

 ……たぶん、今の私は。
 今世紀で1番真っ赤な顔をしてる。

「よい……しょっと」

 果南ちゃんはスカートの生地を脚のラインに合わせながら、私の隣に腰掛けた。
 ふわりと果南ちゃんの香りがする。

 こめかみがドクン、と揺れる。

 息がしづらくなって、ゴクリと喉を鳴らした。

「どうかした?」

 果南ちゃんが、こちらを覗き込んできた。

 ……果南ちゃんが軽く屈みこむと、ポニーテールがゆっくりと右肩から流れ落ちる。
 その髪が、なんだか綺麗だな、と思った。思うんだ。思ってしまうんだよ、毎回。

 大好きなんだよ。果南ちゃん。

 わかってしまったもんはしょうがない。誤魔化しようがない。

 やっぱり私は果南ちゃんが好きだ。

 ダイビングが得意で、操船ができて、天体観測が好きで、
 梅干しが嫌いだけど、わかめとあわびは美味しそうに食べる。

 もう、何というか、一周回って(何が一周回ったんだろう、とにかくもうなんだか)果南ちゃんが好き。

 アイシテルの響きだけで強くなれる気がする。
 甘い匂いに誘われた私はカブトムシ。
 ……今なら、どんなラブソングの歌詞でも理解できる気がする。

「あ……ぅ……」

 何か言おうと思ったけど、何も言えずに、私の声は風に溶ける。

 果南ちゃんはちょっと笑って、それから心配そうな顔をして、私の、おでこに向かって、

「熱でもあるの?」

 手のひらを伸ばしてきて、それが、見慣れた光景のはずなのに、なんだか、艶やかに見えちゃって、もう。

「えっ……と、ない、ないよ!」

 思わず立ち上がって、避けてしまう。
 
 果南ちゃんはびっくりした顔をして、私を見上げる。その表情が、ちょっと幼く見えて、それが、もう。

「え……そう? 顔真っ赤だけど……」

 果南ちゃんの言葉に、私の心臓はまた早鐘を打つ。顔も熱い。気温のせいじゃなくて。

 たぶん、遠泳したときだってこんなに心拍数はあがらないよ。
 びっくりするくらいドキドキしてる。

 ああ、もう。
 おかしくなっちゃったみたい。

「みっ……見ないで!」

 私はそっぽを向いて、頬を両手で包み込む。
 頬も熱いけど、私の両手もいい勝負になるくらいには熱かった。

「うん……?」

 果南ちゃんは腑に落ちないように首を傾げたけど、すぐに海の方に視線を向けた。
 両手を上に伸ばして、体を反らす。

「んーっ、もうすぐ夏だねー」

 空を見上げて、話しかけるわけでもなく呟く果南ちゃん。

 私もつられて空を見上げる。
 たしかに、心なしか、空が高い。雲も、遠くの方に立体的な形の雲が見える。

 夏。

 不思議だ。二人で目を見て話しているときは、見えているものは違うのに。今は、たぶん、同じものを見てる。

「夏、だね……」

 果南ちゃんを見る。

 空を見上げる果南ちゃんの髪は、優しい風にさらさらと揺れている。なんでそんなに綺麗な髪なの?

 木漏れ日は、その綺麗な髪を白く輝かせている。もはや芸術的。芸術がどんなものかは理解してないけども。
 でも、きっと、見る人が好きだと思えば、それは芸術だ。

 頭上の木が揺れて、何枚か葉っぱが落ちてくる。
 それをキャッチしようと思って手を伸ばしたけど、木の葉はひらりとその手を交わした。

「そっ、そういえばさっ」

 軽い感じで声に出したつもりが、思いっきり裏返った。恥ずかしい。顔から火が出そう。

「どうしたの、突然」

 果南ちゃんが、苦笑いしながらこちらを振り返る。
 
「えっと……LINE、みた?」

 返信がなかったの、ちょっと気になってた。
 もしかしたら、昨日私が返信忘れちゃってたの、怒ってるのかな。嫌われてないかな。些細なことが、不安に思えてくる。

「あぁ、えっとね……」

 果南ちゃんは、私から目をそらして後ろ頭に手をやる。

 誤魔化すように、笑った。

「スマホ、家に忘れちゃって。別にいいかなーって……はは」

 なんか送ってたんだ、ごめん。

 果南ちゃんのその言葉に、びっくりするくらいホッとした。

「よかった……」

 嫌われたわけじゃなかった。

「え、なにが……?」

「あ、ううん、なんでも、ない」

 ホッとしたおかげか、少し落ち着いた。

 果南ちゃんの隣に、同じ姿勢で座る。


 さて。

 さてさてさて。

 私だって、経験値0でも、そういう漫画や映画は何度だって見たことはある。
 だから。

 主人公たちは、こういう場面では。

 自分の気持ちに気付いちゃって、隣にはその相手。

 まあ。

 気持ちとか、その、伝えてるよね。

「…………」

 どうなんだろう。

(私は、どうしたい?)

 自分に尋ねる。私のことは、私が1番分かってる。

(今のキョリが、1番いい)

 ……うん。

 そうだね。私はそう思う。

 だって、今のままでも、なにが不満なわけでもない。

 この前まで感じていた変な気分だって、原因がわかってしまえばそれでいい。何も問題はない。

 むしろ、ここで私が「好きです」って言っちゃって、変に気まずくなったりする方が嫌だ。
 百害あって一利なし、とは言わないけども。

 ……だったら。

 私は、このまま、果南ちゃんのそばにいたい。

 そりゃ、いつかは離れるときもくると思う。
 大きくなったら。高校を卒業したら。大人になったら。

 果南ちゃんだって、いつかは……結婚するだろうし。

 そのときまでに、私は、それを祝えるようになりたい。

 だから、せめて、その時までは。

 私は、近くにいたい。いまのままで、果南ちゃんのそばで、幼馴染として、一緒に過ごしていたい。

「……ねえ、果南ちゃん」


 だから、今は。


「ん?」


 今は、めいいっぱい。


「あの、さ」


「なんだい?」


 そばに、いたいから。

 私なりに。


「……耳かき、してもらえる?」


 ……めいいっぱい、甘えていよう。


 果南ちゃんが、ふふっ、と笑う。

「……じゃ、お家帰ろっか」

 私は、コクリと頷いて、それから笑って、果南ちゃんの手を握った。

「どうしたの、急に」

 果南ちゃんはそう言いながらも、嬉しそうに手を握り返してくれた。

 うん。これがいい。

「……ねえ、果南ちゃん」

 階段を下りながら、果南ちゃんがこちらを振り返る。
 風が吹いて、私と果南ちゃんを優しく撫でていく。


「私、果南ちゃんのこと……」


 大好きだよ。


「…………」


 声には、出さなかった。


「……どうかした?」


 果南ちゃんが、いつも通りの表情で私を見る。
 それが、私にとっては、すごくしあわせだと思う。


「……なんでもない!」


 なにそれ、と果南ちゃんは笑った。
 私もつられて笑顔になる。

 うぐいすが鳴く。すずめが鳴く。
 目の前の海から、柔らかい風が吹いてきて、頭上の木を揺らす。
 薄い水色の、高い空は、薄い雲を散りばめて、遠くの富士山をぼかしている。
 海の向こうには、いくつもの島が並んでいる。

 いつもの、変わらない景色。

 今日も、これからも。

 私は、果南ちゃんが好きなんだなぁ、と思う。


 
□□□


 耳を澄ますと、やかんの隙間から透き通った空気の音が聞こえる。

 せっかく果南ちゃんが耳かきしてくれたし、お礼に、お茶でも、と思って。

 いつもじゃない? と笑いながら言われたけど、私だって果南ちゃんに何かしてあげたい。

 使い慣れたやかんを眺めながら、自分にだけ聞こえるように、呟く。

 その言葉は、今は自然と私に馴染む。

 今日の私は機嫌がいい。果南ちゃんに耳かきしてもらったんだ。
 
 果南ちゃんは私の幼馴染。3人目のお姉ちゃん。学年は1つ上だけど、歳はほとんど同じみたいなもの。赤ちゃんの頃から一緒にいた。


 そして、私は果南ちゃんのことが大好きだ。


 今日も、これからも。